追悼

1996年、僕は今の会社に新卒で入社した。
当時の配属先は横浜港の倉庫だった。
初日、いきなり作業服に着替えさせられ、倉庫に入るとそこに彼がいた。
輸出する自動販売機にエアキャップを巻く作業が待っていた。彼の指示のもと、何が何だかわからぬまま、ただただエアキャップを巻いていた。
彼との接点はそこがスタートだった。

2002年10月、僕の香港駐在の任期を終えると、後任は彼だった。
香港で仕事など殆ど無かった当時、引継ぎと称して毎晩飲み歩いていた。
フィリピンパブやらなんやらに毎晩繰り出し、
マカオではフェリーで帰れなくなり、ヘリコプターで帰ってきたこと、
そして、10日で20万円以上の金を使わせてしまったこと、
7歳年上の彼ではあるが、仲が急激に近づいた10日間だった。

2003年12月、会社の方針が香港から上海へ転換され、彼は一旦日本へ帰国。
しばらくは僕の向かい側に彼が座っていた。
彼の営業力は天性のものだ。人を惹きつける力に長けている。向かい側に座っている彼を見て、僕は人間性と営業力を学んだ。

2006年、上海に駐在員事務所をスタート。最初は彼と、1人の現地スタッフでホテルが仮事務所だった。
すぐに事務所を構え、営業スタッフ、経理スタッフを入れ、代表処として登記。
2009年早々、現地法人化を目指した。
日本側サポートメンバーとして僕も現地法人化プロジェクトの一員だった。来る日も来る日も会議の連続だった。

2009年末、現地法人の承認が下り、2010年4月とうとう開業した。ホテルの一室からスタートし、ここまで登りつめた彼の功績は大きい。
4月に彼が一時帰国をした際、酒を飲んだ。今後の上海法人をこうしたい、ああしたいと目を輝かせて話しをしていた。

そして、現地スタッフを5人に増やし、早期の黒字化を全員一丸となって目指した矢先、彼は倒れた。
救急車で搬送先の病院にたどり着いたものの、時すでに遅し、そのまま天に召された。享年45歳。

僕は今、上海にいる。この投稿は上海法人の彼のパソコンからだ。
急死した翌日から上海に入り、関係各所への対応に追われた一週間だった。
日本では昨日通夜が行われ、今頃は葬儀が行われている時間だ。
僕は上海で彼のやりかけの仕事をこなし、動揺しているスタッフの統制をし、この法人を前進させていかねばならない。
当面は8月いっぱいまでだが、例え1ヶ月だけでも、彼の意を引き継ぎ、上海で全力で闘っていく。
悲しんでばかりいたら、彼に頭を引っぱたかれそうだ。