<<バイオリン>>


俺は楽器屋のショウウィンドウの前を通ると必ず片隅に置いてある、あのバイオリンを確認する。
「まだ売れてないんだな。」


俺の名前は東山健一。大学2年である。それは大学受験を控えた高校3年の時だ。
退屈な授業を終え、これから塾へ向かわなければならないのだが、時は既に秋だというのに、いかんせんやる気が無い。今日も塾をサボって、ゲーセンへと向かう。


校門を出たところで俺は財布を拾った。見覚えのある財布だった。中には名前が記されている。『西川康二』、今年の4月に知り合った友達だ。
彼の家庭はあまり裕福ではない。一家を支えてる西川のバイト生活は過酷なもので、話を聞いているだけで疲労感を覚えるほどだった。母は病弱、父は潰れかけた町工場を立て直そうと必死に働いている。
財布の中には多めの金が入っていたが、西川は妹の『美樹』への誕生日プレゼントを買うつもりで貯金していたことを俺は知っていたので、すぐにそれだとピンときた。そんな彼の財布を、友達、いや、人間として盗むことは出来ず、素直に彼の家まで届けることにした。


西川の家の呼び鈴を押すと、インターホンから病弱の母親の声が聞こえてきた。
「はい?」
「あ、東山です。」
「あ、東山さん。ちょっと待っててくださいね。」
しばらくすると玄関から母親が出てきて門扉の鍵を開けてくれた。
「どうぞ。」
迎え入れられた俺は西川の部屋へ招かれた。
「康二、東山さんがいらしたわよ。」
部屋から重く暗い雰囲気に覆われた声がした。
「ああ、入ってもらって。」
俺は会釈して西川の部屋に入っていった。
「やあ、いらっしゃい。どうしたの?」
暗そうな面持ちで机に突っ伏していた西川が起き上がって話しかけてきた。
「お前、財布を落としただろう?」
「え、どうしてそれを?」
驚いた表情の西川に財布を放ってやった。
受け取った財布をキョトンとした様子で見ている西川に、俺は笑いかけて言った。
「今日は美樹ちゃんの誕生日なんだろ。今からプレゼントを買いに行こうぜ。」


西川を連れて部屋を出た。
俺達は美樹へのプレゼントを買うためにショッピング通りに向かった。そこは色々な店があるため、ほとんど何でも揃うところだ。
「本当にありがとう。東山君がいなかったら美樹の顔をまともに見られなかったよ。あんなに兄思いの美樹にプレゼント一つあげられない兄貴なんて・・・」
そこまで言われると何だか照れ臭くなってくる。
訊くところによると、管弦楽部に所属している美樹は新しいバイオリンを欲しがっているそうだ。俺達は良い店は無いかと探し歩き、ようやく割りと良さ気な店を見つけた。
店外から見た感じも綺麗で、店内からはクラシックの曲が流れており、通りがかる人々の心を和ませる。
「こんな店でどうだ?」
俺が訊く。西川は店の良さに何を言っていいものかと困っている。
戸惑っている西川を尻目に、俺はさっさと店内に入った。


正装で身を包んだ気品の高そうな男が、俺達を見て深々と頭を下げた。
俺の後ろに隠れるようにいる西川を、俺は引っ張って前に出した。
「ほら、どんなのがいいんだ?」
店全体を一望出来る所で、西川はキョロキョロと周りを見渡しながら落ち着きのない様子だった。
「何をお探しでしょうか?」
とても丁寧に話しかけてくる店員に、西川はおどおどした感じで言った。
「あ、あのぅ、妹の誕生日にバイオリンをプレゼントしたいと思っているんですけども・・・」
「はい、どのようなバイオリンをお探しですか?」
「い、いや、この中をザッと見たかんじだと、全て予算よりゼロが一個多くて・・・」
「うぅーむ。そのご予算ですと、少々厳しくなってきますね・・・」
西川はそれを聞いて、肩を落とした。
「うぅ、すいません。ぼ、僕、これだけのお金を貯めるだけで精一杯だったんです。」
「西川、このバイオリンは安いぞ。これなら買えるんじゃないか。」
俺はショウウィンドウの片隅に置いてある綺麗なバイオリンを指差した。


「これは・・・」
店員はどこか作り物めいた冷淡な笑みを浮かべつつ語り始めた。
「これは、第二次大戦中にオーストリアの職人が作ったそうです。終戦後、幾人かの手を経て私の祖父の友人の手に渡ったそうです。」
店員の話が本当なら、このバイオリンは五十年以上の歳月を過ごしているはずだが、見たところ傷一つ無く、塗りこまれたニスは新品同様の深い艶を保っていた。
「そんな由来のある品物が、どうしてこんなに安いんですか?」
当然の質問を口にすると、店員は表情を曇らせたが、すぐに気を取り直したように答えた。
「つまり、古い物でも音色が良くないと価値はないんです。一見すると高価そうですが、実際に弾いてみると聞き苦しいので価値は無いのです。祖父の友人も、その前の所有者も、その前の方も、あまりの聞き苦しさに憤慨して手放したわけなんです。」
「なるほど、だから安いのか。おい、西川、どうする?」
いくら安いといっても、聞き苦しいのでは仕方ない。だが、インテリアとしては見栄えが良い。俺はこのバイオリンでも良いのではないかと思えた。
「うーん・・・」
西川は決めかねているようだった。
「これでいいんじゃないか? これしか買えないんだし。美樹ちゃんだって、きっと喜ぶぜ。」
「そうだな。これにします。これください。」


その日の夜、西川の父は仕事。母は体調が芳しくないので、三人でささやかなバースデーパーティーを開くことにした。
「美樹、誕生日おめでとう。」
「美樹ちゃん、お誕生日おめでとう。」
「わぁー、お兄ちゃん、東山さん、ありがとう。」
「さぁ、美樹、早くこの箱を開けてごらん。プレゼントだよ。東山君と一緒に買ってきたんだ。」
美樹は期待の表情で箱を開けた。
「えっ、お兄ちゃん、これ・・・」
「欲しかったんだろ?、バイオリン。」
「お、お兄ちゃん・・・」
美樹は泣いている。西川もつられて泣いている。どんなに貧しい生活でも家族の絆さえあれば幸せなのだ。俺も堪えることができず泣いた。

「お兄ちゃん、ちょっと弾いてもいい?」
「もちろんとも。」
美樹は嬉しさと恥ずかしさを入り混ぜながらバイオリンを肩に置き、演奏の構えをした。

”ヒーヒャラリラ、ヒーヒャラリラ♪”

美樹は練習中のビバルディの”四季”を弾き始めた。店員が言うほど悪くない音だ。素人の俺からすればいい音に聞こえる。この音を憤慨して手放した人達ってのは、よほど音を追及しているプロのバイオリニストだったのだろう。とにかく、美樹の望みを叶えることができ俺も西川も満足した。

”ヒーヒャラリラ、ヒーヒャラリラ♪”

「下手クソだな、お前も。もっとアクセントをつけて、ホラ。」
突然バイオリンが喋り出した。
「違う、違う。運指がなってない。お前、才能ないからバイオリンなんかやめちまえ。」
「あー、俺はもっと上手な人に弾いてもらいたいんだよなー。」

「ちょっとなによ、このバイオリン。」
美樹は憤慨してバイオリンを手放した。

今もこのバイオリンはショウウィンドウの片隅に置いてある。

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